小石川後楽園を世界遺産に(その8)

NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使  本多忠夫

8,後楽園の景観と全体像

 今まで後楽園という庭園の概要を見てきた。庭園は人の手によって自然を模してきたもので、土を基本に岩石や水そして植物である樹木や草花によって形成されている。当然、草木は年々育ち形態を変えていく。手入れがなければいくら岩石が置かれていても、長い年月がたてば台風や地震で変貌し続けていくものである。手入れにしても、時代とともに藩主も異なり庭にたいする想いも様々で、それを手入れする人の意思で変貌する。こうして作庭当時の景観は変貌し続けていく。庭園の宿命といえよう。

 従って、現在の後楽園の姿は初代賴房や二代藩主光圀が完成された姿とは大いに異なることはすでに述べてきたとおりであるが、その中でも当時を忍には十分な原型を止めているという点で他の大名庭園よりも優れていると言うことが出来る。具体的に後楽園の景観配置やその作庭当時の思いについて具体的に見てみよう。

□後楽園の目玉はあくまで大泉水を中心とした景観であった。大泉水は現在より広く周囲は巨石・奇石の勇壮な石組みで見る者を圧倒したという。

□大泉水の中央部には木造平橋の長橋が架かり、その北方よりに舞台があった。そこからの眺めは庭を360度何の遮る物もない静寂の中での大パノラマが展開され、圧巻であったという。その舞台では月見の宴が営まれた。

□こうした大泉水も現在では作庭当時と比べ縮小され、長橋も無くなっている。また、大泉水の北東部に河原書院があって、その周りには特別に池を中心とした庭を作り別世界のようなすばらしい景観を織りなし、仙家のごとしと言われれ、書院自体も障子は金箔であった。ここで、歌会や茶会、能舞台もあり演舞会が開催された。享保の火災で焼失してしまったが、再建されることはなく、その後その辺りに琴画亭が建てられたが、河原書院にはほど遠い施設であり、周囲の景観をなす木石もすべて堀捨てられた。と先に触れた「享保の変革」と言って四代藩主の時代に大改造がなされ、「この時、後楽園の景観大いに変ず」、「作庭当時の景観は見る影もなくなった」と記録(「後楽紀事」)に残されている。

□後楽園は大きく四つに区分される。一つは大泉水周りの「海の景観」、二つ目は通天橋、大堰川、西湖、渡月橋周りの「川の景観」、三つ目は清水観音堂、徳仁堂、小廬山、円月橋周辺の「山の景観」そして四つ目が、水田菖蒲園、松原周辺の「田園の風景」である。

□内庭から唐門をくぐり、後楽園に誘い込み、「起承転結」のある庭園鑑賞を見事に演出したまれな庭園で、物語性があり、来客者を多いに感動させる庭園ある。

◎この起承転結や物語性についてここで少し説明したい。但し、これは私のオリジナルな見方である事を予めお断りしておく。

●「起」は唐門から大泉水に至る木曽山を中心とした深山渓谷の「動」「暗」の景観(深山幽谷に迷い込ませる。物語の始まりである。)

●「承」は二つに区分される。

「承一」は紅葉林から大泉水を望む。「静」「明」の景観。鬱蒼とした渓谷・路から抜け出し、開けた大海原の大パロラマに未來の明るさを諭す

「承二」は枝垂れ桜、一つ松、小廬山(富士山)、蓮池、芝生の「動」「明」の景観。一つ一つの景から多くを学ぶ、旅達の準備

●「転」も二つに区分される。

「転一」は音羽の滝、大井川、通天橋、西湖堤を巡る「静」「明」の景観(物語は進行し、京都の縦軸の壮大な景観や中国のあこがれの空間に旅する。心が弾む)

「転二」は、清水観音堂、徳仁堂、八角堂周辺の「静」「暗」の景観旅の中にも祈りの大事さと清水舞台からの異なった視覚による景観のすばらしさ、次いで、奥山での祈りの空間。旅の奥深さ、心の引き締め

●「結」は梅園、菖蒲園、藤棚と水田、松原との「静・動」「明」の景観(旅を通じて得られた教訓の集大成の空間、平常な生活の中でも心豊かな広がりのある明るい未來、そして松原での心の引き締め、浮かれる事なかれ)

□「起」は人生の始まりである。暗く狭い産道を苦心して通り抜け、生まれいずる者の苦しみを通して、親の産みの苦しみを悟らす場でもある。「承」は正に産湯につかって人生の門出を祝す場である。人生の始まり、未來の希望の雄大性・勇壮な無限の広がりを諭す場である。竜田川の幣橋を渡って、枝垂れ桜と小廬山(富士山)、橋を渡っての唐崎の松、橋からの蓮池を通しての富士山の景観は養育時代である。生まれた者が成長して行くに必要な教育を受けた場である。枝垂れ桜からは人生の盛りに思いっきり見事な花を咲かせ、潔く散っていくことの美しさを、辛崎の松からは、一年中緑を失わず勇姿を誇らしく示し、毅然とし生き抜くことを諭す。そして蓮池は極楽浄土にいける目標を見失わず日本一高く美しい富士山を心に描いてこれからの人生を生き抜くことを教える。そして、人は一人で生まれ一人で死んでいくのに一人では生きられない動物であり、家族あっての自分であり、子孫繁栄こそ一族を支える原点であることを陽石、陰石を置くことによって暗示している。一旦、ここでビードロ茶屋に入って人生の旅達を誓う。そして江戸を足って京都を目指す。(ここでもう一度唐門からの木曽路を思い起こす)人生の旅たちである。暗くて険しい道のりを行く。眼下に広々とした大海原が望める。明るい未来に向かって歩む。木曽路を抜けて琵琶湖に至る。蓬莱島に不死を願い長い旅、人生を祈る。そして、渡月橋に立つ。京都に到達したのだ。人生の修行の始まりである。物語は「承一」に入る。噂の通り京の都はあでやかな景観である。渡月橋から大堰川を望み、左に嵐山、大河川の流れの奧に目を懲らす。縦軸の奥深い景観が良く纏められており、その頂点に紅葉に良く映える通天橋が望める。渡月橋から南の方角を眺めるとそこは中国の西湖である。あこがれの中国の西湖堤に心が弾む。旅の楽しみをしみじみ感じる。生きる喜びに浸る。そして「承二」に突入する。大堰川左側の琉球山に登る。現在こそさほどでもないが作庭当時は大きな岩や奇岩があり、人生楽しいだけでないことを教える。そして清水観音堂の前で人生を振り返り今まで歩んできた人生・景観を振り返り見る。そしてこれからの人生に対する戒めと祈りの空間・修行の場に入っていく。奥山を静かに進む。自らの師と仰ぐ人への想いを込め、手本とするよう意を新たにする。そして、いよいよ「結」に至る。奥山を出て平穏な田園風景の連なる場に出る。水路が静かに流れ藤棚があり、杜若園が広がり、美しく儚い八橋が見え隠れする。毎日の生活の中に身近な美を望む。とは言うものの昼なお暗い荒磯の松原もあり、気を引きしませる景観も用意されている。梅林を進むとそこに全く別の美しい河原書院(今は跡形もない)が優しく迎える。障子は金箔を施しており、この書院の周囲には別の池を中心としたこの世とは思えない美しい庭園に囲まれていたという。ここで茶事や能が演じられたという。このように小石川後楽園には人生の起承転結が上手く纏められているのである。静と動、暗と明のリズミカルな景観が、訪れる人々を飽きさせない。これが後楽園である。