小石川後楽園を世界遺産に(その7)

NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使  本多忠夫

○修正とお詫び
 前回の記事に2カ所、誤りがあったので修正いたしました。一つは『木曽川には滝はないが』と記しましたが、実際、木曽川には多くの滝があります。ただ、「目覚めの滝」という名称の滝はないと言いたかったのですが、意に反した表現となってしまっていました。従って、『木曽川には多くの滝があるが、目覚めの滝という名称の滝はない。ただ、』と修正いたしました。もう一つは『「後楽記事」(1736年)に記録されている。』と本の名称を記しましたが正式には「後楽紀事」です。尚、著者は源信興(額賀養員)です。

6,小石川後楽園の概要の続き

 庭園は多くは樹木によって構成されているため、月日がたつと自然現象によって成長したり枯れたりしてその姿を変えていく。その都度手入れを行うわけであるが、模様替えもし、新しい樹木に変えたりする場合もあり、刻々と変化していく。従って、当然作庭された当時の姿を現在にとどめておくことは不可能に近い。それでも、本小石川後楽園は他の庭園の保存状況と比べ、よく当時を忍ぶには十分な景観を現在にとどめていると言われている庭園である。それでも意図的に大改革が行われ、作庭当時と大きく変貌したという大変革が行われたので、その件を以下にご紹介しておきたい。

 前回、後楽園に『5代将軍綱吉の生母桂昌院が鑑賞に訪れるに当たって、三代水戸藩主綱條は桂昌院の老体を気遣って、歩行しやすいようにとの配慮から、園路はもとより、ほとんどの大石、奇石等の石組を取り払ってしまったと、「後楽紀事」(1736年)に記録されている』。と記したが、それより四代水戸藩主宗堯の時代、「享保の変革」と言って後楽園の大変革がなされたのである。綱條には世子吉菜がいたが病死してしまったため、高松の綱條の実弟賴候の子である賴豊の子宗堯を養子に迎え四代水戸藩主とした。時に14歳であった。高松の二代藩主は光圀の実子頼常であるが、兄の賴重に養子に出して高松の二代藩主となった。子が授からなかったので、綱條の実弟の子賴豊を三代高松藩主とし、その子、宗堯を水戸代三藩主の綱條の養子として、江戸に迎えたと言うことである。賴豊の高松藩邸は後楽園の神田川を挟んだ対岸にあり、高松藩から水戸藩の後楽園がよく見えたとのことであった。宗堯は幼くして水戸藩主となったため、父である高松藩主賴豊の意見をよく聞いたという。そして、先代綱條時代の後半からほとんど手入れをしていない水戸藩邸内後楽園の庭の植木が鬱蒼と生い茂り、見通しが悪いことから大改革をせよと宗堯みに告げた。そこで宗堯は早速家臣である大森茂次朗と三木幾右衛に命じて後楽園の大改革がなされた。これを「享保の変革」という。これによって、喬木七百余が伐採され、また、泉水の石組みを取り払い石垣に改められた。古木、石組みで残るものわずかとなり賴房時代より大事にされてきた松原も下枝が皆切られてしまったという。そして庭の遠方の高い築山にはすばらしい松の古木があり、光圀が特に愛していたものであるが.これらもすべてが切り下ろされたとのことが、先に引用した「後楽紀事」に記録されたており、後楽園にとっては最悪の出来事であった。おそらくそのとき大泉水も三分の一ほどが埋め立てられ、ほぼ現状の広さになってしまったのではないかと思われる。

 近年においても明治維新によって、屋敷はすべて取り壊され、新政府のものとなり、庭園のみが奇跡的に取り残された。屋敷跡はすべて軍の用地として、砲兵工廠として利用された。これは兵器を作る工場である。当時当然後楽園を含めて一帯を工場とする計画であったが陸軍卿であった山縣有朋が「天下の名園を失うに忍びない」として後楽園全体を潰廃する意見に反対し事なきを得たとのことである。当時山縣は工廠建設に当たってフランスから招かれたルボン陸具軍大尉の意見を聞き入れ、同時に強い後押しがあったと言うことである。もし、山縣有朋がいなかったら後楽園はこの時点で姿を消していたこととなる。後楽園史上特質すべきことといえよう。その後も、大正時代の関東大震災で大きな損害を受け、また太平洋戦争においても米軍機による空襲によって大きな打撃を受けてきた。こうした危機を乗り越え現在は都立公園として一般公開されている。以下に明治初期から一般公開され、特別史跡・特別名勝に指定されるまでの経緯を見てみよう。

7,明治維新後、都立公園に至る経緯

 1868年(明治元年)明治維新により、長い間続いた幕藩体制が崩壊し、新しい政府が樹立された。水戸の最後の藩主は徳川昭武である。翌、明治2年廃藩置県により邸宅とともに邸地を新政府に上地(土地をお上に返納すること)というより没収され、兵部省の管轄地となった。明治4年には敷地の一部に造幣司が移された。しかし、庭園部分の後楽園は庭園として機能されてきた。明治6年以降は、天皇の行幸、皇族や海外の賓客が多数来園した。明治12年屋敷跡の大半は砲兵工廠がが建設された。庭園はそれまでの価値や実績が評価され、かつ、先に述べたように山縣有朋の口利きもあって庭園として残された。1923年(大正11年)4月に砲兵工廠が改称され陸軍造兵廠となった。その年に庭園は小石川後楽園として国の史跡、名勝の指定を受けた。同年関東大震災が発生し大きな被害を受けた。1936年(昭和11年)には文部省の管轄地となり、東京市が管理者となる。そして昭和13年には一般公開された。1945年(昭和20年)には太平洋戦争によるアメリカの空襲により大きな被害を被った。1952年(昭和27年)には、文化財保護法に基づき、国の特別史跡、特別名勝に指定され、今日に至っている。

 以上のように後楽園は国有地で文部省の管轄となり、管理は東京都が行っている。とは言っても現実的には外郭団体が管理していたが2003年に地方自治法の一部改正に伴い、公の施設の運営。管理を株式会社をはじめとする営利企業、財団法人、NPO法人市民グループなどの法人、その他の団体に代行させることが出来るようになった。これを指定管理者制度という。

 2003年6月13日公布され同年9月2日に施行された。そして現在小石川後楽園は公益財団法人東京都公園協会が東京都から委任を受けて管理・運営を行っている。

 では公益財団法人東京都公園協会とはどういう組織か少し見ておこう。

 東京都公園協会は、昭和23年「任意団体」として発足し、昭和29年2月25日財団法人の設立許可がおりた。昭和60年には東京都財政支出団体(都庁の外郭団体)に指定された。その後、都政の一翼を担う管理団体として長い間公園等の運営に携わってきた。しかし、役所の外郭団体に対して世論として厳しい目が向けられ、上述した流れから、外郭団体ではない民間事業者として衣替えした。その上で公園等の指定管理者を希望する他の民間事業者等と同じくプロポーザルを提出し、地方公共団体で定めた条例に従って、総合評価方式などにより候補者の団体の中から選定され、地方公共団体の議会の議決を経て最終的に選ばれ、晴れて指定管理運営の委任を受ける。こうして今回も五年間、公園・庭園・霊園等の管理運営に当たる事になっている。

 現在当協会では58公園・9庭園・8霊園・1葬儀場・2ビジターセンターの運営管理に当たっている。それらの内、9つの「庭園」は小石川後楽園を含む、次に示す「庭園」である。

○小石川後楽園(黄門様ゆかりの大名庭園) 文京区後楽1-6-6(特別史跡、特別名勝)
○浜離宮恩賜庭園(徳川将軍家の庭園) 中央区浜離宮庭園1-1(特別史跡、特別名勝)
○六義園(和歌を基調とした江戸の大名庭園) 文京区本駒込6-1-3(特別史跡)
○旧芝浦宮恩賜庭園(江戸最古の大名庭園) 港区海岸1-41(名勝)
○旧岩崎邸庭園(和洋建築文化の水を示す庭園) 台東区池之端1-3-45(重要文化財)
○向島百花園(四季日本の花が咲く庭園) 墨田区東向島3-18-3(名勝、史跡)
○清澄庭園(全国から名石が集まった庭園) 江東区清澄3-3-9(名勝)
○旧古賀庭園(洋館とバラの庭園) 北区西ヶ原1-27-39(名勝)
○殿ヶ谷戸庭園(武蔵野の野草と涌水の庭園) 国分寺市南町2-16(名勝)