小石川後楽園を世界遺産に(その6)

NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使  本多忠夫

5,小石川後楽園はなぜ余り知られていないのか

5・6  マスコミの偏った報道による弊害

 今でこそ日本文化の見直しが普及しだし、各テレビやラジオまたは新聞や雑誌でも取り上げられるようになってきたが、それまではお笑い番組や料理番組、クイズ、スポーツ放送、ドラマ等で埋め尽くされ、日本文化をきちんと伝える番組や記事はほとんどなく、一部の関心あるものが真の日本文化とは何かを追い求めてきたに過ぎない。ただ、先にも述べたが、知識人というか文化人と称するマスコミ人間は極端に赤系(左系)が多くなっており、本来の日本文化を否定的に見るものが多く存在していた。まだまだ日本文化の本質を見極めている番組や記事は少ないといえよう。日本文化の本質を掘り下げれば、平和指向の文化体系がなされていることは一目瞭然の筈であるが、どうも素直に伝わってこなかった気がする。せっかく文化財の報道があっても解説者が左寄りでは困ったものである。しかし、世界遺産に日本の縄文遺跡や、熊野の古道、神の宿る沖の島、富岡製糸工場、明治産業革命遺産等が登録され、世界に発信されるなど、いい傾向が続いたがこのところまた、停滞している。いずれにしても、自然および自然現象を神とあがめて、平穏を願ってきた日本文化の根底は平和指向であることに偽りがない。

 大名庭園はまさにこの日本の文化を代表する文化財なのだ。一定の空間を自然をねじ曲げず本当の自然が作り出したかのような自然をあえて人工的に作り出し、大自然と調和させ、高木を植え、巨岩を配し、水辺を作って神の降臨を待ち、平穏を祈る。また、そうした自然の中で茶会や能、舞踏会を開催し、または俳句や和歌を詠んだりして楽しんだのである。こうした文化財は日本中に沢山ある。マスコミが日本の文化財の紹介を積極的に取り上げ報道していれば後楽園を知らないものはいなくなっていたであろう。

5・7 立地的弊害

 後楽園が存在している地域は靖国通りの裏手に当たり、メイン道路に直接面していない。そしてメイン道路は商店街になっておらず事務所街となっており、後楽園に対す愛着が少なく、地元意識がないところに原因があろう。奥まったところでもメイン道路が商店街であれば,地元として後楽園を盛り上げて多くの人を寄せ付ければ、自分たちも潤うので、文化財の近くに商店街があるかないかでその文化財の知名度は異なってくる。また、事務所街なるが故に超高層ビルが林立しやすくなり、後楽園にとっても弊害となるので、将来的には現在の南側の超高層ビルを5階建て程度に規制して、事務所街ではなく商店街にしていけば、多くの来園者が後楽園を訪れるとともに買い物と伝統文化に触れることが出来、いっそう楽しい空間価値が生まれることだろう。後楽園はそうした意味だ、従来あまり知られてこなかったといえよう。

 以上述べてきたようにいろいろな要因が重なって、身近にこのようなすばらしい文化財でもある庭園・後楽園を知らない人が多い。

 都会はますます高層化しコンクリートだらけの街と化かしていく。そうした中に後楽園のような緑と水に満ちあふれた空間は正に都会の中のオアシスである。多くの人にこうした空間があることを知ってもらい、自然とのふれあいに生気を取り戻してもらいたいと私たちは願っている。

6,小石川後楽園の概要

 小石川後楽園は東京都23区内の一つ文京区の南端に位置し、都営地下鉄大江戸線「飯田橋駅」下車2分、JR総武線「飯田橋駅」東口下車徒歩8分、東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園駅」中央口下車徒歩8分の位置にある。現在の千代田区にある皇居の北側に当たる神田川に面している。当時は江戸城の北側の外堀に面していた水戸藩に作られた庭園である。面積は70,847㎡の都立公園として一般に公開されている。水戸藩邸自体は25万㎡の広さがあったから、およそ現在の後楽園の3.5倍の広さであった。現在の東京ドームやドームホテルのあるドームシティーや文京区役所のある文京シビックセンター、中央大学理工学部等もすべて水戸藩邸内に建てられたものである。東側の現在サッカー練習所として使用されている運動場も水戸藩邸の一部であった。水戸藩邸が作られる前の神田川は現在のように隅田川には流れておらず、日本橋川に通じていた。それを隅田川に流れ込ますために、神田山を削り、さらに掘り込んで外堀として隅田川に流し込んだのは伊達政宗である。従って、この堀を伊達堀と呼ばれてきた。神田山を削った土砂は日比谷入江の埋め立てに使用した。現在の日比谷公園は海であったのだ。こうした天下普請を行ったのは2代将軍秀光である。水戸藩邸の初代藩主賴房は秀忠の弟に当たる。秀忠は家康の第3男、賴房は11男である。秀忠の子である第3代将軍家光と賴房は仲が良かったといわれている。元々は水戸藩邸周辺は沼地であったものを、賴房が光圀に頼み込んで、ここに水戸藩邸の中屋敷を1629年に作庭した。しかし、1657年の明暦の大火(振り袖火事)によって水戸藩邸はもとより江戸城まで焼き尽くされ、江戸城内にあった水戸藩の上屋敷をこの小石川藩邸の中屋敷に移すこととなり、改めて上屋敷として装いを新たにした。ちなみに水戸藩の中屋敷は現在の東京大学農学部があるところで、駒込亭である。また、下屋敷は墨田区にある現在、墨田川公園となっている小梅亭である。

 今まで、小石川後楽園の入り口は日中友好会館のある西門であったが、ここは本来裏門で、正式には東京ドームのある東側が正門であった。しかし、ズート東門は開かずの門で、西門から出入りしていたが、ようやく令和元年、念願の唐門が復元されたことによって、東門が常時開かれるようになった。この件に対して、私たち保存会は署名活動まで行って、一日も早く唐門を復元して、東門を開けていただくよう東京都建設局や東京都公園協会に運動を続けてきたことによるものと自負している。

 それは、後楽園を真に鑑賞するためには正門から入り、内庭を一周し、唐門をくぐって延段を昇っていくルートが正式な周り方であるからである。延段の右側は木曽の山々であり、東側は木曽川を模したものである。従って、唐門をくぐって(江戸を出て)延段(木曽路)を経て、琵琶湖に向かう道筋となっている。木曽川の北方向を振りかえれば「寝覚めの滝」が見られる。本来、木曽川には多くの滝があるが、目覚めの滝という名称の滝はない。ただ、「寝覚めの床」は現存し龍宮所の入り口として有名な名所となっている。ここでは遊び心で内庭の池の排水をここに落として、滝の風景を作り出し「寝覚めの滝」としたものである。延段も作庭当時はごつごつとした大きな岩や巨岩が配され、唐門をくぐるとそこは深山幽谷に紛れ込んだ錯覚を覚えさせるような景観であったという。木曽路の厳しさを演出させていたのだ。しかし、水戸藩の第三藩主綱條の時代、1702年(元禄15年)光圀が死んで2年後、5代将軍綱吉の生母桂昌院が後楽園を鑑賞に訪れるに当たって、綱條は桂昌院の老体を気遣って、歩行しやすいようにとの配慮から、園路はもとより、ほとんどの大石、奇石等の石組を取り払ってしまったと、「後楽紀事」(1736年)に記録されている。後楽園の景観はそのとき大きく変貌したという。このようなわけで、庭は時代や藩主の思惑で作庭当時と比べ変化していくものである。その後も幾多の変革があり、今の姿となっていった。次回もこの変革の状況をもう少し語りたい。