小石川後楽園を世界遺産に(その1・その2)

NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使  本多忠夫

1,はじめに

 私は今年(令和4年)の10月17日の総会で、NPO法人小石川後楽園庭園保存会の理事長に就任した。本会は今から20年前にNPO法人としたもので、その5年前に任意団体として活動を始めた。その当時から25年の月日が経つ。現在82歳であるから、57歳の頃である。地元の人からの情報で、後楽園の南側に超高層ビルが建つので何とか阻止しよう、撤回して貰うための活動をしたいので、仲間に加わってもらい共に運動を起こそうということであった。その辺の事情や経緯については、後ほどに詳しくお話ししたい。

 現在の主な活動方針は、この小石川後楽園と全国にある大名庭園とを束ねて世界遺産にすることを一つの目安として活動していくことである。庭園そのものだけでなく、庭園を通じての当時の文化をも含めて庭園文化を世界遺産として登録することを目指す。

 また、後楽園の周辺を世界遺産にふさわしい街とすべく環境整備の方向性等を示していくことなどである。

 庭園の手入れ等の管理は行政が直接行っており、私達はそうした管理には携われないが、後楽園の素晴らしさをアピールすることは出来る。即ち、世界遺産にすると言う事は,それなりに価値がある庭であり文化財であるから、それを具体的に多くの人に分かり易く理解して頂くような活動をすることである。また、未だ気かつかない魅力の発見に努めることも私達の役割でもある。何よりも私達は鑑賞者の立場でもの言う代表者であると言う自覚で、行政と対して行こうと考えている。それには、後楽園を訪れた鑑賞者の意見や感想を絶えず把握していくことが大事である。その方法は私達が主となって,来園者を対象にアンケート調査を行い、分析して、報告書としてまとめ、行政や多くの人に知らせることである。そして、鑑賞者の立場からどこどこを、どう整備したり、新たにこうしたサービスやこのような催しを行えばより楽しい場所となり魅力が増し、多くの人に利用してもらえるであろうといった提案を行政にぶつけていくことである。鑑賞者として気付いたことを行政に伝え、それなりに鑑賞者の意向をくみ入れて行政と民間とが協働で対処していくことであろう。また,この庭園は,もてなしの空間であり、庭園内で茶会や脳を始め演舞会等も行われ、会席料理等も振る舞った。そうした当時の文化活動も含めて世界遺産にして行く活動も合わせ行って行くと同時に、実際に庭園内で、お茶会や能、舞踏、会席料理などを、催したり、演じたり、提供したりしていきたいと考えて居る。

 実は、コロナ禍で2020年度(令和2年)~本年である2022年度(令和3年)の2年間は活動を中止してきた。そして今年の令和4年度も結果的に活動をしてこなかった。

 というのも、この間に役員や,関係者が5人も亡くなったからである。コロナで亡くなった方は2名、高齢が元でお二方が亡くなり、そして、1人は52歳の若さで突然亡くなられた。これからという人であっただけに悲しいし、悔しい出来事であった。

 そうした中、理事長をお勤めいただいた方も,88歳となられ、山梨県から東京に出てくるのもお辛くとなり辞任を申し出てきた。同時にこの際,この団体を閉鎖すべきだという人と、私は高齢になったので,この際、理事を辞任し、かつ、脱会したいという役員も出て、最終的には4人の理事が引き継ぐこととなった。とは言ってもNPO法人として存続させていくためには理事は8人以上15人までとなっており、このままでは存続したいといっても、NPO法人として成立しない。 誰かが主となって、新役員を選定しない限り、本会は閉鎖せざるを得なくなる。そこで私が年を顧みず、存続のために、新理事候補を探し、お願いして漸く7人の理事と監事を説得して、臨時総会を文面上開催して、了解された。元から居た会員にもこの際どうするかを新に問うたところ、高齢のため脱会したいという人が半分以上で、引き続き会員として支援して下さる方は30名足らずであった。

 令和5年度から新たに会員募集を諮り、新な気持で新理事のもと、再スタートしようと新理事長となった私は胸膨らむ思いでその準備を進めている。事務所も水戸大使の会の事務局長で副会長である小林伸光氏にお願いして千代田区平河町に決まり、何とか持続出来事となった。

 今日まで、地元の有力者の家族の方が3代にわたって理事長をお勤めいただいた。従って、私は4代目の理事長ということになる。

 現在、私は埼玉県の朝霞市に住んでおり、文京区区民ではないので、よそ者である。よって、今まで理事長就任を固辞してきたが、上述のようなわけで、やむにやまれず、理事長を当面引き受けざるを得ない事となって仕舞った。同時に後楽園は東京の文京区にあるが、何も文京区民だけのものではなく広く日本の文化財なので、その辺を余り意識しなくとも、後楽園を愛し,広く多くの国民ないし世界中に広めて行こうとしているので、この際どこに住んでいても良いのではないかと思うようもなってきた。

 そして、この会を作った当所からのメンバーでもあり、NPO法人化の手続き全てを行ってきた。また、大名庭園民間交流協会の一員でもるので、ここで本会を閉鎖するとなると、他の団体にとって大きな打撃となり、多大な迷惑をもたらすであろうという危惧と責任感がそうさせているのであろう。「老兵は静かに去るべし」か「人生80歳にして立つ」をスローガンとした私の野望かそうさせているのかも知れない、女房としてみれば、「終活の時期に新に理事長となってどうするの、止めておきなさい」と叱られているが。

 考えてみると、小石川後楽園は私が57歳にこの話がくるまでは、正直、余り関心が無かった。というか、その価値を知らなかったといえよう。そして今から約10年前に「黄門様ゆかりの小石川後楽園博物志」という本を出すに当たって、漸く後楽園の全体象を私なりに理解したと言えよう。従って,多くの人は恐らく未だその存在さえ知らない人が多いはずである。まず多くの人に知ってもらいたいというのが、私の偽らざる信念かも知れない。「生涯現役」の主な柱として、死ぬまで活動していきたいと願っている。

2,小石川後楽園との運命的出会い

 ふるさとである東京・新宿で育った私は、5歳の時、東京大空襲で自宅は全焼し、周辺は焼け野原となり瓦礫と化した。新宿の家は淀橋浄水場の近くで、東京大空襲で家が焼けたとき、この淀橋浄水場に逃げて生き延びることができた。この浄水場は玉川上水を引き入れて濾過・沈殿してきれいになった水を都民に送水していたところである。言うなれば淀橋浄水場は「命の恩人」(命の恩場所)なのだ。

 家が全焼した後、2年半ばかり、鎌倉に住んだり,港区の現在の広尾町に母方の親族と1軒屋で共同生活を続けて、漸く新宿の元の敷地に新家屋を建設して戻ってきたときは小学校2年の2学期であった。

 私達の世代は戦後教育の第1号であり、戦前の教科書とかなりことなっていた 。焼け跡派」と言われた世代より6歳ぐらい下の世代であり、団塊の世代より上の世代であるが、いずれにしても当時の遊びは、焼け跡だらけの荒涼とした瓦礫の中が日常の遊び場であった。鬼ごっこやかけっこ(マラソン)、かくれんぼ 、缶蹴り、水雷艦長、自転車の車輪回し、馬乗り、ちゃんばら、すもう、だるまさんが転んだ、ケンケン、ジャンケン、ベイゴマ、メンコ、ケンダマ、ビーダマ、おはじき、釘指し、竹馬、紙飛行機、竹とんぼ、キャッチボール、三角ベースの野球、女の子は、ナワトビ、お手玉、タマツキ、はねつき等多彩であった。そうした意味ではゲーム器など全くなくとも、子供達は学校から帰ると皆地域単位で、餓鬼大将の下一堂に集まって、こうした遊びを行っていた。何の寂しさも感じたことはなかった。

 淀橋浄水場の南側に家があり、その東側に小学校があったので,その行き帰り、浄水場との境の土手の草を踏み分けながら、皆でそれこそ道草食って帰ったものである。土手の上には、鉄条網が張り巡らせていたが、鉄条網をくぐり抜け、浄水場の敷地の中に入り、その芝生で遊んだこともある。悪いことと知りながらも,こっそり入って,守衛に見つからないよう遊ぶのは,スリル満点で子供にとっては楽しい冒険でもあった。

 また、淀橋浄水場に流入仕切れなかった玉川上水からの水を流していた河川が近くにあり、夏になると、その河川で、泳いだりして水遊びした記憶がある。結構の水量があり、それなりにきれいであった。その河川は外堀に繋がっていた。現在、地下を走っている京王線(当時は地上を走っていた)の脇にあり、新宿御苑の脇を流れて、その先をいまだ確認していないが、外堀に流れていた。

 淀橋浄水場は玉川上水を引き入れて濾過・沈殿してきれいになった水を都民に送水していたところである。現在私が携わっているNPO法人の対象は当然、小石川後楽園であるが、その庭園には大泉水があり、その水は神田上水を引き入れ、調整池の役割をして、昔の水戸藩邸内を横切って、神田川を筧で渡り、神田や日本橋方面の飲み水として供給してきた場所である。

 大江戸の飲料水を支えてきたのは神田上水と玉川上水の二つである。どういう訳か私はこの二つの上水と深い関わりを持っている。

 淀橋浄水場は玉川上水を引き入れ江戸・東京の民に配水し、後楽園は神田上水を引き入れて神田や日本橋方面に送水してきた場所である。淀橋浄水場は「命の恩場所」であり、子供の頃の遊び場でもあった。今は廃止され、千代田区にあった都庁もこの跡地に移転し、副都心となって高層ビルが林立している。後楽園はその南側に高層建築物で立ち塞がれ、それを何とか将来的には低くさせて、小石川後楽園の末永い存続を願って活動している。 この小石川後楽園の存在はこの話(後楽園の南側に高層ビルが建つので,撤回して貰うよう、共に行政に交渉しようというもの)がくる前まで、さほど気に掛けていたことがなかった。ずばり言うと余り知らなかったといった方が良い。そういえば、1度ぐらい母に連れられ行った気がする程度の印象しかなかった。その庭園に関して25年もの長いあいだ、より楽しい場にすべく、かつ、知らない人に知らしめたり、持続的に末永く存続できるような活動に携わり、かつ,今後も続けようとしている。何か運命づけられているような気さえする、不思議な縁を感じている。

 庭園や公園は生活空間内にあれば、当然日常生活の中で利用するし、馴染み深いものとなるが、日常生活圏外の庭園や公園は、よほど有名でないと出掛ける機会がない。私にしても、終戦直後の子供の頃、港区の広尾町に2年弱しか住んでいなかったにも拘わらず、有栖川公園は遊び場であったし、新宿に戻ってからは明治神宮や新宿御苑も遊び場の対象であった。従って、文京区に住んでいる者は、矢張り、後楽園が遊び場であったようだ。

 しかし、それでも、後楽園は単なる公園ではなく、大名庭園であり文化財でもある。これだけの由緒があり、すばらしい公園でありながら,もっと都民全体に知られて良かった筈であるが、何故このような名園である小石川後楽園が余り知られてこなかったのかを本会を通じて、いろいろ学んで行く内に漸く理解出来た気がする。幾つかの要因があり、ここでは紙面の都合上省略するが、この連載中にこの点について少し触れさせて頂こうと思っている。