小石川後楽園を世界遺産に(その9)
NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使 本多忠夫
江戸における大名庭園は、260から270といわれる大名たちの屋敷の中に作られた庭の総称である。それらの大名は、自分たちの住まいであり、公式に客を招き入れ、もてなしをする場である上屋敷と、隠居して、公的屋敷を世継ぎに譲り、隠居生活をする場が中屋敷、そして災害が起きたときの等避難場所として、または、避暑地、別荘、あるいは納戸・倉庫としての下屋敷という屋敷を最低三カ所を幕府より下賜されており、それぞれにふさわしい庭園が作庭された。従って、当時江戸には1,000に近い庭が存在していたことになる。まさに、自然を取り入れていた、エコ都市が400年前に実現していたのである。当時の人口は、100万人といわれ、ロンドンやパリと比べても多く、世界で最も人口の多い大都市であった。そうした中で、本小石川後楽園は、今日まで、当時の作庭の意図をそのまま感じさせる数少ない庭園であり、歴史的に意義深い庭園である。
9,後楽園が作られた江戸時代を知ろう。
後楽園は江戸時代の初期に作られた大名庭園であり、そこに大きな価値を見いだしている。本連載の(その3)でも触れたように後楽園の出来た時代背景で、江戸時代の特色を少しばかり述べさせていただいたが、徳川家康が戦国の世を制して江戸時代を築いてきた訳であるが、その江戸の状況を家康が江戸に入城する前、入場後どうなっていったか、以下にみてみようと思う。即ち、後楽園を通じて歴史に興味を持ってもらいたいとの強い思いもあり、本文を手がけさせていただ切っ掛けでもあったので、少しばかりおつきあいを願いたい。
後楽園をより楽しむためには、後楽園が出来てきた経過やその時代に興味を見出すことが大事であるからである。実際問題、家康なくして後楽園の存在は考えられないからでもある。
9・1 家康が入城する以前の状況
(1)時代背景
1573年7月に織田信長によって足利義昭が滅ぼされ室町幕府は終わりを告げた。そして戦国時代を制して信長、秀吉の安土桃山時代を経てここに天下平定を果たしたのが徳川家康である。その間の戦国武将の栄枯盛衰は現代人の生き方に多くのヒントを与えてくれる。駆け引きや戦争のあり方、思いやり、決断、責任、自己犠牲、隠居、切腹等多くを考えさせられる。
江戸幕府は、徳川家康が1600年の関ヶ原の戦いで豊臣側に勝ち、1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に開府した年をもって始まる。ここに戦国時代は終焉した。ようやく平和な時代を迎えた。というより、今後、再び戦争がおきないような社会、徳川に刃向かってこない様な仕組みづくり、そして、永続的に徳川の天下が続くように世継ぎ体制を同時に進めたのである。しかし、正確に言えば1614年、15年の大坂冬の陣、夏の陣によって、豊臣家を完全に滅ぼすことによって戦いは終わった。
家康は豊臣秀吉を滅ぼすと翌年75年の生涯を終え、その意志を受けけ付いた二代将軍秀忠、三代将軍家光が徳川政権の永続的支配と安泰を目指して、矢継ぎ早に諸制度を打ち上げ実行していった。まずは、江戸の天下普請をおこなうと共に幕藩体制を強固なものとし、武家諸法度等諸法律を制定し、諸大名の妻子の江戸住まい、参勤交代等を行っていったのである。そうした中で、御三家が誕生した。
これらの制度は、戦国大名が再び地方で力をつけ、徳川家に反旗を翻すえすことを防ぐための一つの方法でもあった。武家諸法度により、江戸に、地方の各藩の大名の妻子を人質に取り、且つ、参勤交代制などにより大名を一定期間滞在(住まわす)させ、そのための屋敷の土地を下賜し、屋敷を自費で造らすなど、大金を使用させ、地方大名の財力を弱めさせたのである。
江戸城下町の建設は、厳密に言うと、家康が豊臣秀吉より関八州を与えられ江戸城に入城した1590年から始まっているといえる。しかし、当時はあくまで秀吉の天下で、その家臣としての家康の城づくりは思い通りには進まなかった。
(2)家康の入城前の江戸城
家康が入城した江戸城は、12世紀初頭武蔵国一帯を制していた武蔵七党と共に、北武蔵に絶大な勢力を持った秩父党と名乗る一族がおり、その族長である秩父重綱の第4子重継が江戸貫主(くわんず……族長)となり、重継の長男が江戸の櫻田郷の東南端に本拠を置き江戸太郎重長と称し(1117年〜1181年)武蔵国の棟梁(親分)と言われ、江戸館を建てたのが始まりであると言われている。
江戸氏を名乗ったのは、その辺一帯を江戸と言っていたことによるものと考えられている。江戸の地名の起源は諸説あるが、最も有力なのは、水戸や平戸と同じく、江の戸で、江の入り口と言うことから名付けられたと言われている。
その館は、後の江戸城の本丸台地と考えられている。一般に江戸を開拓したのは太田道灌と言われているが、実はそれよりも300年も前から江戸城のあった台地に館が築かれていたのだ。
その後、江戸氏は源頼朝の配下となる。鎌倉時代に入り北条氏が実権を握ると、かえって江戸周辺に勢力を伸ばし大いに栄えた。東は小日向、浅草、石浜、千束、高杉、南に桜田・国分方、飯倉、鵜ノ木、蒲田、西に渋谷、喜多見、北に中野、阿佐ヶ谷、とその所領を拡大した。しかし、北条氏の滅亡と建武の新政(1334年)そして、南北朝の動乱には、足利一族をはじめとする多くの有力武士が各地で対立し、足利の支配下にあった江戸遠江守忠重は足利と対峙していた新田義興(新田義貞の次男)主従を謀略にかけて殺害した。しかし、そのたたりとして狂い死にしたという。以降衰退したと言われている。その後の消息は定かでなく、太田道灌が城を築くまで江戸館は無人の廃墟となった。その間約1世紀であった。
1450年頃、関八州は古河公方・成氏と幕府の後ろ盾のある上杉氏とが対峙し、二分されていた。上杉氏は、一連の成氏に対する防御のため、上杉氏の家掌太田資長に1456年の江戸館を再建して江戸城の建設工事を始めさせた。そし1457年8月に一応工事は完成した。この太田資長が後の太田道灌である。当時記された禅僧の詩集などから、城は子・中・外の三郭よりなり、中城はのちの本丸、子・外は二の丸の機能を持っていた。中城には静勝軒と言う道灌の館を中心に付属屋があった。当時禅宗建築の影響を受けて一般に「閣」と言われる重層建築が建てられていた。いずれにせよ、桃山時代の城郭構成の祖型をなしたことがうかがい知れる。道灌はこの城に約30年間ほどいて、周辺を整備して、城下町の体裁を整えてた。しかし、主君上杉氏に殺害され、その後上杉氏が江戸城に入った。一方駿河国から虎視眈々と、関八州をねらっていた、北条早雲は1495年2月上杉氏の支城小田原を責め、徐々に関東における地歩を固めていったが、志半ばで、1519年亡くなる。その後を継いだ氏綱は武蔵に進出し、1524年上杉朝興を川越に敗走させて、江戸城に入城する。以来、江戸は、家康の入国まで約60年間遠山氏を城代とする北条氏の一支城に過ぎなくなる。以後、北条治下の城下町として着実に発展していった。太田氏の城後、下町を中心にして、日比谷、桜田、牛込、市ヶ谷等城南,城西地帯に拡大した。また、日比谷入江をへだてた前島森木村や平川を渡った上野、湯島、本郷、神田などの外延的発展が著しかった。
当時の代表的都市は京都、堺、博多であるが、京都の人口は、二十万余、堺、博多は二万余と推定されている。江戸はこの三都市ほど集約したものではなかったが、多くの外延地帯が形成されていたのである。