小石川後楽園を世界遺産に(その5)
NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使 本多忠夫
5,小石川後楽園はなぜ余り知られていないのか
最初に触れたが、ここいらで、小石川後楽園はなぜ余り知られていないのかその理由を述べてみたい。
当然、諸説あるだろうが、可成り私の個人的見解が強いと思われるが、暫くおつきあい頂きたい。まず箇条書きにその理由というか要因を掲げ、これについて一つずつ、説明を加えることとする。
- 明治維新による江戸文化の抹殺
- 明治政府による富国強兵政策による弊害
- 太平洋戦争後もまたもや偏向教育がなされたことによる弊害
- 東京という大都市なるが故の弊害
- 管理体制上の弊害
- マスコミの偏った報道
- 立地的弊害
これらが重なり合って、折角の名園が、都民は勿論全国的にも余り知られてこなかった理由として掲げられよう。
5・1 明治維新による江戸文化の抹殺
明治維新は早い話、薩長連合の地方の力による革命である。戦国時代を制して徳川一族によって新しい時代を築いた徳川時代、即ち、江戸時代すべての否定から始まった。したがって、江戸時代に花開いた江戸文化、即ち、日本文化の否定である。
その流れの中で、江戸にあった各藩の藩邸はすべて新政府のものとして没収され、ことごとく取り壊された。それらの多くは官公庁用地として利用された。結果、東京は世界を驚かせる勢いで近代化がなしえたことは事実であるが、失われた江戸文化は数知れない。水戸藩邸も多くは募集され、砲兵工廠として軍部のものとなり、兵器を作る工場とされた。一時は、黒煙をもうもうと立ち上る公害が周囲を脅かせた。幸いにも、藩邸内に作られた庭園である後楽園は、その素晴らしさから、破壊されることは免れることができた、これはまさに奇跡といわれている。しかし、こういう状況の中で、明治政府の教育に、江戸時代に花開いた文化について教えることはなく、後楽園も一部貴族(公家や大名など)のためのものとして使用されていた。一般庶民に開放されたのは昭和の時代を待たなければならなかった。
5・2 明治政府による富国強兵政策による弊害
一方、明治政府は「西洋文明に追いつけ」を合い言葉に、猪突猛進し、富国強兵策に突っ走ってしまったことである。あげくは「西洋文明を追い越せ」を合言葉としはじめ、日清戦争、日露戦争に明け暮れし、いままで歩んできた日本文化の総括もないまま、西洋文明に追いつくことで夢中であった。即ち、その間、日本文化の本質を腰を据えて考えるゆとりがなかった。従って、科学的に客観的に日本文化をとらえることなく偏った歴史観を国民に強いてきた。何が日本文化の本質であるかを国民に教えてこなかった。ひたすら西洋文明に追いつくことのみしか頭になかったといえよう。
こうした歴史的背景が、後楽園があまり知られてこなかった遠因の一つであることに間違いなかろう。
5・3 太平洋戦争後もまたもや偏向教育がなされたことによる弊害
日中戦争を経て太平洋戦争へと突入し、結果、大敗を期し、アメリカ連合国の属国と化した。民主主義社会とはなったものの、アメリカによる占領政策とその歩調を合わせるように日教組による偏向教育によって、日本文化は再び否定的に教え込まれた。ここでもまた、アメリカ等との戦争の真の総括もないまま、復旧、復興にいそしみ、資本主義社会の先進国に追いつき追い越せを合言葉に猛烈に突き進んだ。公害列島、働きバチ、ウサギ小屋と揶揄されながらも経済大国として、アメリカに次ぐ国として蘇ったものの、真の日本文化について体系的教育がなされないままであった。こうした状況下では、大名庭園の価値など国民に伝える余裕がなかった。こうして、東京にこのような素晴らしい庭園がありながら、いまだ多くの都民にも知られていないのだ。
5・4 東京という大都市なるが故の弊害
東京には昔から、他の地域で生まれ育ったものが多く移り住んできた。そしてお互いに「あなたのふるさとは」とたずねると、東京以外の地域をいう。東京で生まれ育ったものは、「私にはふるさとがない、東京で生まれ東京で育ってずーと東京で暮らしてきたから」と回答する。と「江戸っ子なのね、珍しい」と言われてきた。ふるさとはどこかとは「東京にどこの地域から来たか」を尋ねているのであって、東京で育ったものは、ふるさとはないというのが正解であると、なんとなくそう言い聞かされてきた気がする。したがって、私も「自分にはふるさとはない」というのが身についていた。大人になっても、なんとなくそういう意識があったが、やはり、よくよく考えれば、東京で生まれ東京で育ったものの故郷は東京なのだ。あえて言えば「私の故郷は東京の新宿区です」とか「東京の文京区がふるさとです」と回答すればよいのだ。こう思うようになったのは、結構年とってからのことである。
従って、東京での教育で特に「ふるさと教育」といったものはなかった気がする。もし、地方に小石川後楽園のような庭園があろうものなら、それが存在する市町村だけでなく県をあげてその存在価値を誇りを持って教えたであろう。東京では上述したような歴史的背景もあり、また、大勢の地方からの移住者がおり、特にそうした教育には無関心であったことなども、小石川後楽園があまり都民に知られてこなかった要因でもあろう。
5・5 管理体制上の弊害
東京都には特別区というものがあり、別に市町村もある。後楽園はその特別区の文京区にある。本来、文京区にある庭園であればその管理主体は文京区が扱えばよいと思われるが、その昔、この土地は国が明治維新によって水戸藩から没収して国のもの、即ち、国有地としたものである。明治時代は一旦軍部のものとなったが、その後、「後楽園」は文化財として認められ、文部省の管轄となった。そして管理を東京都に委ねた。現在は東京都は指定管理者制度により、民間団体である「公益財団法人東京都公園協会」にその管理を委託している。従って地元である文京区は後楽園について、どちらかというと無関心でいる。もっと積極的にその価値を広める活動主体となってほしいのであるが、現実は無関心を装っている。また、小石川後楽園の名称であるが、ただ「後楽園」で良いものをどうして小石川と付けなければならなかったかが地元でささやかれている。文京区は本郷区と小石川区が合併して誕生した区でもあり、本郷区の人々は同じ文京区内の小石川後楽園を自分たちの庭園として認めたくない風潮なるものが存在しているのだ。岡山市に後楽園と名のる庭園があり、最初に文化財として指定されてしまったため、本来の後楽園はそれと区別されるために、後楽園の前に小石川と付けなければならなくなってしまったのである。従って、従来は岡山にある庭園を「後楽園」と称し、本家本物の「後楽園」は後楽園の存在する「小石川後楽園」と呼ばなければならなかった。しかし、最近では、岡山の後楽園も「岡山後楽園」と呼ぶのが正式名称であることとなっている。こうした事情もあり「小石川後楽園」があまり区民全体で盛り上げようとしてこなかったことなども都民に知られてこなかった要因の一つといえそうである。
少し長くなったので、次回もこの続き記させていただきたい。