小石川後楽園を世界遺産に(その4)
NPO法人小石川後楽園庭園保存会 理事長
水戸大使 本多忠夫
4,小石川後楽園の素晴らしさ、特徴について
それでは、後楽園の素晴らしさと特徴を纏めてみよう。
- 後楽園は御三家の一つである水戸藩邸の上屋敷内に作られた庭園である。
- 後楽園は江戸時代の初期に作られた大名庭園で、その後多く作られた大名庭園の手本とされた名園である。
- 水戸藩は御三家の一つとはいえ、定府が許され、したがって参勤交代制の除外扱いを受けた特別の存在となった藩である。(禄高が尾張家や紀州家と比べ低かった。ということは、それだけの領地を水戸では確保出来なかったといううことで、その代償として水戸藩のみ特権が与えられたといわれている。)
- 藩主は江戸屋敷に常駐し、当時から名君として庶民に親しまれたていた水戸藩2代目藩主徳川光圀こと黄門様によって完成された名園なのだ。
- 後楽園は日本の名勝や中国の名勝等見応えのある景観を縮景したり、見立てたりして大泉水周辺に80箇所以上バランス良く配した回遊式築山・泉水庭園である。
- 歩く毎に移りゆく変化に富んだ景観を快く楽しませながら庭を1周させ、適度の疲労感の後、河原書院というすばらしい数寄屋造りの建物に招き入れて会席料理を振るまったり舞踏会や酒宴会或いはお茶会を開催して来園者をもてなした。まさに、大がかりなもてなしの空間を創出したのだ。
- 河原書院は金箔で覆われ、障子にも金箔がほどこされたていたと伝えられている。周辺には別にこの世とは思えぬ美しい庭や池が作られたとのことであるが現在は跡形もない。
- 後楽園は家康の11男である頼房によって1629年に作庭された。頼房は御三家の一つである水戸藩の初代藩主で、二代将軍秀忠の弟に当たる。(秀忠は家康の3男)そして秀忠の子で3代将軍家光と親交があり非常に仲が良かったと云われている。
- 頼房はあえて高低差のある沼地を選んで作庭した。そして地形を活かすと共に、元からあった樹木を出来る限り活かした庭造りを行った。
- 樹種は他の庭園に比べ少ないが立体感にとみ、雄壮な庭で、江戸にある大名庭園では非常に珍しいといわれている。
- 園内の庭石や岩は、家光の命によって伊豆から取り寄せた。そして奇岩や巨岩をふんだんに使用し、雄大な庭作りを行った。来園者は皆その奇想天外の雄大さに肝をつぶしたとのことである。
- 1661年頼房が亡くなり、黄門様こと光圀が水戸藩2代藩主に就任した。光圀が34歳の時である。当初は頼房の意向を重んじて庭園の保護に努めたが、1665年中国明の亡命者である儒学者朱舜水を招いてから中国的文人趣味に心奪われ、朱舜水の指導のもと、庭造りに励んた。
- 光圀は父親である頼房が作った景観を一つも壊すこと無くその空閑地に中国風の景観を作りだし、全体的に頼房が作りだした景観とバランスのとれた庭園として完成させた。
- 光圀の時代になって新に作り出された景観は、得仁堂や文昌堂、西行堂それに朱舜水が指導し手作らせたのは円月橋、西湖堤それに唐門等であるといわれている。
- 後楽園という名称もこの朱舜水によって名付けられた。そして、その門には朱舜水の筆による「後楽園」の額が掲げられた。
- 光圀はこの庭園を庶民にも開放した。当時としては大変珍しいことで、こうしたことが庶民から好かれた要因でもあろう。
- 光圀は30歳の時、中屋敷である駒込邸内に日本史編纂のために「史局」を設置したが、34歳で家督を継ぐと、この小石藩邸内にこれを移し、「彰考館」と改め「大日本史」の編纂に務めた。これは大事業で、光圀の代では完成せず、九代藩主斉昭公によって漸く完結させた。この書は明治維新に大きな影響をもたらせた。
- 光圀が亡くなり、以降、幾たびかの苦難を乗り越え、今日こうしてと特別史跡・特別名勝として存続している貴重な庭なのだ。
- その苦難の足取りを見てみよう。
- 水戸藩3代藩主綱条(つなえだ)の時代に五大将軍綱吉の生母である桂昌院が後楽園を訪れるに当たって、綱条は圭昌院の老体を気遣って、歩行しやすいようにとの配慮から、園路はもとより、殆どの大石、奇石や巨石等の石組みを取り払ってしまった。後楽園の景観はその時、大きく変貌したといわれている。
- 翌年関東大震災に見舞われ、また、その7ヶ月、後江戸の大火が襲い、本邸も巨樹も大部分を焼失し、多くの景観が焼失した。(水戸藩邸の焼失は、過去何回もあった。)
- 水戸藩4代藩宗堯の時代に「享保の改革」という大改革が行われ、それなりに維持してきた後楽園が更に一変したという。
- その後も水戸藩は定府が続いたため、地元と江戸との管理のため財政難が続き、庭の手入れも儘ならず、放置状態が続いたが、九代藩主斉昭の時代に光圀にあこがれを抱いていた斉昭公によって、可成り当時を忍んで手入れされ、昔の面影を少し取り戻し、現状に近い姿となったという。
- 明治維新になって多くの大名庭園が取り壊されたが後楽園は名勝なるが故に奇跡的に残された。後楽園は何とか難を逃れることが出来たものの、庭の周囲である旧水戸藩の屋敷跡地は砲兵工廠という兵器を作る工場となり周囲はもうもうたる排煙で覆いつくされた。
- こうした工場も大正の関東大震災で崩壊した。そして、再建されず、九州小倉に移され、その後の難を逃れることができた。即ち、もし、そのままとして軍需工場として存続していたら、太平洋戦争による米軍の爆撃の対象になって、後楽園も跡形も無く破壊されたであろう。
- いずれにしても後楽園は、その後、修復されたりして大正12年、国の史跡、名勝の指定を受ける。昭和11年文部省の所管となり東京市庁が管理者となる。昭和13年に一般公開され、昭和27年文化財保護法に基づき国の特別史跡、特別名所に指定された。